ある夏の日、スンゴンが夜逃げした。
自分の部屋があまりにも暑いので、クーラーを入れてくれと牧師にくってかかったが、認められなくてクサクサしていた、とは少し聞いていた。 しかし、留学生ハウスは、冬にオンドルの代わりにといって電気じゅうたん(茶色のチョンギチャッパンギと呼ばれるもの)は用意してくれたが、クーラーは用意はしてくれない。 電気代も人数で割って払っていたので、クーラーがあると不平等になってしまう。
スンゴンのいない日々が続いていた。もとからこの家にいた留学生たちは、ほとんど夜遅くまでバイトをしており、朝は朝で早く出て行ってしまうので、誰が留学生ハウスにいるかいないかはよくわからなかった。 アジュモニとハルモニは、心配していた。
ある日おかしいと思って合鍵で部屋を開けたら、荷物がさっぱりなくなっており、机の上には指輪ケースと、それを包んでいたと思われるリボンや包み紙、そして灰皿にタバコの灰のみ。 「スンゴンが逃げた!」 家賃を払わず、何も言わずいなくなってしまった、しかも備え付けの扇風機も冷蔵庫も持っていってしまったのであった。 「そういえば・・昨日夜遅く、男の声と・・なにか引きずるような音がしたような・・」 「ええ?」 「でも、夢かなあと思ってそのまま寝ちゃったんだけど。」 「あの子、いい子だと思ったのに・・やっぱ千葉で変な仲間に変な影響受けて・・・あいごう」
私は何もいえないまま、その指輪ケースを見つめていた。この安っちい包み紙、リボン、 一体やつは、千葉で何をしているんだか・・、帰りの遅くなった女の子たちを送る仕事ですか、白タクですか・・ 別にいいけど、こんなふうなかたちでアジュモニまでがっかりさせて。 チヨンさんと一緒に選んで買ったスンゴンへの誕生日プレゼント、私たちの自己満足的セレクションのブルガリオムのグルーミングセット、お前なんかにはやっぱり似合わん!返せええええ。
家賃をとるためにスンゴンの姉に電話をするも、居場所は口止めされていて、自分は関係ないから連絡しないでほしいといわれてしまった、アジュモニ。 牧師がカンカンになって怒っていて、スンゴンの通っている学校を調べて待ち伏せだ!といいつつも、実際には時間がなくてそうはできなかった。あとでわかったのだが、スンゴンはとっくに手続きをとって、千葉のほうの日本語学校に通っていたらしい。
スンゴンもいなくなってしまった。そして9月の終わりにテグ出身のウニも帰国した。
夏に新しい学生が3人いっぺんに引っ越してきていたのだが、仲良くはなれなかった。 一人は済州島出身しかわからなかったが、要町駅からおりるとすぐあるラーメン屋さんで彼女を毎日毎日みた。 大変だなあ・・夜遅くまで、毎日毎日。 夜1時ごろ台所でお弁当のおかずを作って、すっと部屋に入っていく無口な女の人だった。 一人は、さらさらストレートの茶髪のきつそうな女の子ヒョンギョン、当時21(私24歳)。 日本語学科で、休学して日本へきたらしい。 その子と仲良かったのが、4階に引っ越してきたソンキュン。彼は自分が将来弁護士になるといい、漢字が読めるから日本語なんてと馬鹿にしつつも全く話せない、プライドだけが非常に高い学生であった。 最初は、彼とチュンギョンとで近所の店で飲んだりはしていたものの、韓国でいかに素晴らしい学生生活を送っていたか、家庭教師で稼いだお金で車まで買ったことを自慢ばかりするので、避けることがおおくなってしまった。
彼は、ソンキュンはすぐに追い出されてしまう。 ことのはじめは、4階のトイレ詰まり。 アジュモニに、水道修理会社に電話してくれと頼まれたので、代わりに電話して呼んだ。 調べると、焦げたチラシが大量に詰まっていたのだという。修理の人も驚いたという。 みんなに聞いて回ると、ソンキュンがチラシ配りのバイトをしていることがわかり、彼を 問い詰めたところ、トイレで燃やして捨てたと白状した。
またお金や物もどんどんなくなることが多くなった。 こんなことがおこっていてはたまらない。アジュモニがキョンチョル氏に協力を求め、 調べたところ、彼がやったと認めた。 彼は、日本での留学生活でストレスがたまると、自然に手が動いて物を盗ってしまう病気 なのだ、と告白した。その盗癖は日本に来てから始まったのだという。 それで、前の寄宿舎から追い出されてここに来た、これからはしないので許してほしいと アジュモニに頼み込んだが、他の人に迷惑がかかるので、とその日に荷物をまとめさせて 追い出したのであった。
確かに彼の韓国での学生生活と、プライドがひどく傷つけられるバイト(と彼が思う)をしないとやっていけない留学生生活とのギャップに苦しむのはよくわかる。 何も苦労することなく、マンションのワンルームに住みながら、おこづかいも送金で遊びまくっている・・という子だってたくさんいる。 アルバイトをしていない、ということ自体が一種のステイタスの日本への留学。 日本へ留学するってホント大変だなあ、とこの事件の時にやっとわかったのであった。 あとできれば本国でお金ためてから来たほうがいいかもなあ、とも。 そういった考えが、自分の韓国ワーキングホリデイ計画に役に立ったのであった。
アジュモニ働く
牧師は、新高円寺駅から歩いてすぐのところにも、別の留学ハウスを2箇所もっていた。 一つは古い雑居マンションの2室、3DKを3人で使うので、合計6人の韓国人留学生がいた。 もうひとつは、同じ駅からすぐのレンタルビデオ屋のとなり、そこに韓国食堂を出すつもりで奥の一部屋を3人の留学生が使っていた。 この韓国食堂も見に行ったのだが、見事なやっつけ工事が展開していた。もちろんそこにいたアジョシたちも、出稼ぎの朝鮮族の人々であろう。
韓国食堂のかたちがととのうまで、とりあえず店頭で韓国の惣菜を売ることにしたので、 アジュモニが働くことになった。
その頃自分は、というと週末はタイ料理屋台でバイトをしていて忙しかった。 その屋台とは、あるタイ料理の先生が、市民祭りなどの地域イベントが開催されるたびに出していた屋台で、日給ですぐもらえるのがありがたかった。 (ある日、売り上げがめちゃくちゃ悪く、後で給料を払うと言ったきり連絡が途絶えてしまって、その先生とはそれっきり切れてしまったが。) 一緒にバイトする子たちがタイからの留学生で、彼らと一緒にバイトしたり学生会館に遊びに行くのは、韓国漬になっていた日々から解放されたようで少し嬉しかった。
アジュモニと過ごす時間が少し減ったことに、正直ほっとしているところがあった。 けれども、アジュモニを好きでいることには変わりはない。 彼女は、近所の中華の店のおばさんと仲良くなり、店のあまりものをもらってきたといって私によく食べさせてくれた。 ビニールパックに入ったチャーハンは、匂いが納豆であった。 納豆チャーハンか?と思うも豆は見当たらなかった。 「これちょっとやばいんじゃないの?」 「ケンチャナ、モゴ(大丈夫、食べな)」 結局この夜、お腹の具合が悪くなり眠れず、とうとう吐いてしまった。 チャーハンは傷んでいたのであった。 これだけではない。その中華店のおばさんがくれた、といってシュークリームもくれたのだが、どうも妙な味なのである。 「これやばいんじゃないの?」 それを食べた日も吐いた。2回続いたので、あまりものは食べなくなったのだが、アジュモニは私が食べないので不機嫌そうだった。
松葉杖をつきながら、池袋から新高円寺まで通うのはなかなか大変に思われた。 けれども、彼女は早く足を治して、昔みたいに月40万稼いでみせる!といきまいていた。
9月末に、2年間通っていた新宿のアルバイトをやめて、お次は明治公園にある青少年センターでバイトを始めた。11月に行われる全国青年何とか大会の準備で、友人の紹介でうまい具合に入ることができたのであった。 その頃、牧師はまた別の場所に韓国食堂を作っていた。場所は八丁堀。 ビルとビルの間の細い道を入っていたところにある、名前は『味郷(ミヒャン)』。 この店のためのチラシを、青少年センターの印刷機をお借りして・・デザインも私で・・ このちらしが、あのオフィス街に舞ったのだよ!
青年大会で生紀宮様を初めて見て、あまりの高貴オーラに、やはり皇族は違うなあと感動した頃。ある一人の韓国人留学生のおかげで(?)、韓国語の塾を知り、そこでキム・ギヨン 監督『殺人蝶を追う女』のビデオが借りられるなんて、と嬉しい悲鳴を上げていた頃。
自分だって想像もしなかった、次の派遣の仕事が東京八重洲口に決まり、この食堂『味郷』でアジュモニと一緒にバイトするようになるなんて。 店がオープンして1週間くらいは、ただ仕事が終わるとごはんを食べに行っていたのだが、 牧師はアルバイトをしてほしいと頼んできた。
6時までは、リボンタイつけて偽派遣OLとしてブックセンター近くで働き、夜は『味郷』 でアジュモニのアシスタント。 韓国スタイルで、お客がいなければ座ってもよし、お茶などを飲んでもよし、友人からもらったキム・チュジャやキーボーイズのテープでアジュモニと踊ってもよし。 ただ、客が席を立たない限り店を閉めることができなかった。閉店が11時なのに、1時までいられたり・・ 夜遅くなったときは、2階で寝た。布団もいつのまにか私の分が用意してあった。
店はせつなさでいっぱいだった。古い食堂を買い取ってつくったので、当然古い。 まずは香港フラワーがいたるところに配置されており、テーブルが2台だが、狭すぎて椅子をあまり引くことができなかった。韓国のチマチョゴリ人形、素人がぬったとバレバレの壁。 2階にトイレがあり、部屋は6畳くらいで、テレビ・大きなタンスと、洋服ダンス、テーブルが2台。この部屋は客席にもなった。
|