東京デイズ
No.3



 

 スンゴン

いつものように1階でご飯を食べながらチヨンさんやウニ、アジュモニでだらだらしていると、大きな男がいきなり入ってきた。そして大きな声で、今まで聞いてきたイントネーションとは違う韓国語をしゃべりだした。
目がぎょろっと大きく、おちょぼ口、重そうな眼鏡をかけ、スポーツ刈りが伸びきったような頭。彼は椅子にどかっと座り、テーブルにお弁当や値切り品のシールが貼られた野菜、果物などを置いた。アジュモニがありがとうと言いながら、それらを自分の部屋の冷蔵庫にしまった。

彼は釜山出身、私と同い年。チヨンさんによると、釜山のオヤジでも今では使わないような激しい慶尚道方言を話すので、韓国人でもわからなかったりするそうだ。
前からチヨンさんや、テグ出身のウニの話す韓国語のイントネーションが、今まで聞いたのと違うなーと思っていたのだが、韓国にも方言があるという。
名前はスンゴン。その大きな体に、怪獣みたいな名前が良く似合う。
高田馬場の日本語学校に通っているので、近くのスーパーでバイトし、見切り品を持ってくるのでアジュモニに好かれていた。チヨンさんは、彼を弟のようにかわいがっていた。日本語が下手で、私は彼をよくからかった。私もスンゴンから韓国語が下手だとからかわれた。ちなみにスンゴンの話す簡単な一言も全く理解不能なので、チヨンさんによる通訳ではじめて会話が成り立った。

私が4月の下旬に、船で釜山に行くつもりだと話すと、俺のお母さんを迎えに行かせるといい、そのあとすぐに電話をかけ、港で待っているように話したのであった。
その日初めてあったのに、いきなりである。

「別に釜山に着いたら光洲に行くからいいのに。」
「うちのお母さんはバレーボールの選手だったから、俺と同じくらい背が高いんだ。」
(誰も聞いてないよ、そんなこと)」
「別に泊まるわけじゃないし、釜山は1回行ったことあるから何とかなるよ。」
「うちのお母さんに会う、決まり!」

全く人の話を聞いていない様子である。強引な男だ。

チヨンさんがいなくなるまでの2ヶ月間、この男に私は振り回されることになる。
出会った1週間後には、彼はスーパーの陳列バイトをばっくれて、それ以降は知り合いがやっているスナックを手伝っていた。市原だったか、3時間かけて週3回通っていた。
お父さんは早くに亡くなり、母親と姉の3人暮らし。姉も日本に留学していた。
父の残したお金でスンゴンが
21歳のときに店を始めるも失敗、その後は街をふらつくただのチンピラになり、見かねた母親が、姉も日本にいることだしと、
「成功するまで帰ってくるな」と日本に送り出したという。日本語に興味がないスンゴンは、したがって勉強なんてするはずもなく、日本にいる知り合いたちと、毎日のように酒を飲んでは暴れていた。

しかし母親は、おこづかいもちゃんと送金していたというのだから、全く私には理解できない世界である。タバコもティス(韓国のタバコ)を送ってくれなんて、スンゴンが電話で言っていたのを見たことがある。母は厄介払いで息子を日本に送り出したのではなかったのか・・??
スンゴンは、お酒を飲んで帰ってくると手がつけられないのだが、普段はやさしく、
アジュモニと2階のおばあさんには親切にしていた。アジュモニは娘が二人、息子が一人いる、といった。なので、自分の息子のように思えたのだろう。異国で寂しさを紛らすためにも互いが互いを必要としていたようだ。
 

アジュモニの入院

ここで少しアジュモニの過去について話そう。韓国語能力の向上(!?)とともに、
彼女の素性がわかり始めた。
彼女は当時数え年で53歳。私の母と同い年である。ある時知り合いの日本人女性が描いたと、絵はがきを見せながら、自分も弘益大学(ソウルにある美術系では有名な大学)の東洋画学科に通っていたが、家の都合で働かなければならなくなり1年で中退した、というが本当かはわからない。

彼女の娘の一人は結婚して中東に、もう一人はソウルから3時間ぐらいの都市に住んでいて、息子は兵役中。20数年前に夫の暴力に耐えかね家出、子供を連れて行きたかったが、当時は離婚した女性が女手一つで子供を育てるのは不可能に近く、再婚もすることなく一人で食堂を転々としながら、やっと小さなタバン(軽食も出す、コーヒも出す店。今ではタバンというと老人の集まるところ、地方だったらおばさんが横にくっついて一緒にコーヒーを飲む場所という定義が適当か)を開いた。
しかし、不景気のあおりを受け店はつぶれる。借金だけが残りどうしようかと悩んでいたところに、知り合いから日本の食堂で働かないかと誘われ、300万ウォン(30万円だが、韓国の物価と照らし合わせると決して小さいお金ではない)を何とか工面して観光ビザで来日。
ブローカーが用意した埼玉の赤羽にあるアパートに住み、大久保の食堂で毎日休まず夜遅くまで働き、1ヶ月の収入は40万ぐらいになったという。余裕が出てきたところで教会に通い始め、そこで、わが留学生ハウスの大家である牧師に会い、教会での食事担当を任され、交流が始まった。2階のおばあさんは、ある食堂で一緒に働いていたときに出会い、お金をちょくちょく貸しているうちにいつのまにか60万円にもなり、離れたくても離れられなくなってしまったので、仕方なく一緒にいるのだと言った。

2階のおばあさんは、娘はチョンノ(ソウルの商業地域、インサドンの近く)で宝石店をやっており、偽物じゃないのかなーと思わずにいられないでっかい石の指輪を見せながら、娘が送ってくれるのだ、といつも自慢していた。首の傷も見せながら、この傷のために働くことができない、といつも借金のことでアジュモニと喧嘩していた。
おばあさんが、鼻が曲がるようなきつい香水をつけ、女らしい(といってもスナックの制服のようなスーツ)服装できめ、化粧も濃くしている日には、タクシー運転手のオヤジが留学生ハウスに来るのであった。
「今日は爪をきれいに磨いてあげた。そしたら彼は本当に喜んで、こうして洗面器で爪を丁寧を洗ってくれる女なんてお前だけだ、と感動してくれたんだ・・・おまえも男に尽くさなければいけないよ。」
と私に言った。

私は、彼女達の生き方を肯定も否定もする気はないが、あまりにも無知で本能のままに生きているので、すがすがしく感じたものだ。バイトと家の往復だけの単調な生活に、
彼女達と関わることは刺激になった。本とにらめっこしてつまらない文法を覚えることよりも、私は彼女達とかかわることを選んだ。留学生達は学校とアルバイトでほとんど寄宿舎にいなかったから、7時には帰ってくる私は、彼女達と一緒に過ごす時間が必然的に長くなった。

時として、人間関係は深くなればなるほど、悪い面も良い面も受け入れていかなければならない。韓国人はこうだ、とつまらない一般論で考えたくもないし、たまたまこの留学生ハウスにいた人たちがそうだっただけ、と考えるようにしたい。
しかし人間関係における価値観のずれに私は疲れきって、韓国人だから・・という理由で全てに納得しようとした。笑いにしようとした。人によって違うものだと考えるように努力した。けれどもできなかった。お決まりの情というもので説明することだけでは、当時の私に余裕はなく、そして韓国のことをあまりにも知らなすぎた。
それでも、留学生ハウスの人間関係のドロドロに巻き込まれ、2001年冬、牧師に出て行け!と真っ赤な顔で怒鳴られるまで、よく笑って過ごしたものだと今思う。

夏の気配も感じられるような5月の中旬の夕方。いつものように自転車を止めて階段をあがろうとすると、チヨンさんの大きなお尻が視界斜め上に入ってきた。ミョンフンとキョンチョル氏も見えた。何かを引きおろそうとしているところだった。アイゴーアイゴータリヤーとうめき声が聞こえてきて、その何かはアジュモニの巨体であった

「どうしたの?」

「トベハダガ タチョッテヨ(壁塗ってて怪我しちゃったって)」

「-タガ(-していて)」という構文はこういうときに使うのか、とひざをぽんとたたきたい気分だったがそれどこではない。

彼らは、やっとのことで1階の台所に、アジュモニを横たえた。
脂汗を浮かべて苦しんでいるアジュモニを前に、私たちは何もできなかった。
事故のおきた状況はこうだ。3階の台所をベニヤ板で仕切り、新しい部屋が作られたのだが、見栄えを良くしようと、壁を白く塗ることにした。テーブルにのったが背が届かず、その上に椅子を置き、その上にあがった。押さえる人はいないのだから椅子はすべる。彼女はバランスを崩し、膝を打って転げ落ちた。アジュモニの体重がそのひざに全部かかったのだから・・・その時3階には誰もいなかった。

夕方、アジュモニが見えないので、おかしいと思ったチヨンさんが上がってみると、
アジュモニのうめき声。倒れている彼女を発見した。
アジュモニは朝、上にあがっていったので、転んでから数時間はそのままの状態で苦しんでいたということになる。

翌日彼女は新大久保にある春山外科病院で手術、入院した。
彼女の膝は完全に砕け、ボルトを入れて骨と骨をつなげたという。全治2ヶ月。

初めてお見舞いに行ったときは、アジュモニの顔は青ざめてやつれていたが、2回目3回目からは、私たちが持っていった果物を彼女がむいて、私たちに食べろというくらいまで元気になった。おばあさんは毎日お見舞いに行き、「この人に食べ物は買ってくるな、自分が太ってて怪我が大きくなったんだから。」と嫌味を言った。
名札を見ると知らない名前が書いてあった。牧師の奥さんの名前を使って入院し、牧師の保険でとりあえずまかなったという。