東京デイズ
No.2



 寄宿舎の人々

 

「この住所では住民登録はできませんねえ」。

引っ越して落ち着いてきた頃、豊島区役所に行った時のことだ。
役員は分厚い台帳を取り出して、私に見せた。
「この建物の所有者がまだ区に登録していないので、そこに住んでいる人も当然住民登録ができないということです、大家さんには何度も言っているんですが・・」

住民登録ができなければ免許証の住所変更もできず、保険証も作れず、まあ、とにかく大変なことなのだ。東京デビューの出鼻をくじかれた。寄宿舎に戻ると1階のドアの横にポストが取り付けられており、へったぴいな字で『留学生ハウス』と書いてあった。わざわざ平日に休みを取って区役所にいっているというのに、全く人を馬鹿にしたようなネーミングである。
3階に行くと牧師がいたので区役所での出来事を話した。彼はなんでもない顔をして、落ち着いたら、区役所に行くつもりだから心配するなといった。結局私は1ヶ月の間住所不定となった。

こんなこともあった。黒のスーツを着た男二人がやってきて、牧師はいないかという。日本人だった。今は誰もいないと答えた。すると、何か書かれた紙を玄関に貼り、横の階段をあがっていってしまった。そーっと様子を見ていると、男達はそれぞれの階のドアに同じ紙を貼っていた。
彼らがいなくなった後、その張り紙を見ると、『この建物の所有権は○○にあり・・したがって即刻退去・・・応じない場合は強制・・いかなる方法を以って・・云々』と穏やかではない文面が。この寄宿舎の権利譲渡の際に何かトラブルがあったのは間違いない。

お昼。
学校から帰ってきた学生で、この張り紙を見てしまった人たちと、アジュンマの荒らいだ声が聞こえてきた。3階に住んでいる二十歳くらいの女の子は泣きながら出て行く、出て行くといい、その日に出て行ってしまった。
アジュンマも事情はわからないらしく、ぶつぶついいながら張り紙をはがしていた。
1階に住んでいた釜山出身のチヨンさんは、お風呂に入るために3階を出入りしていた。
日本に来て6キロ太ってしまったといって、大きなお尻を揺らして歩く姿がキュートな2歳年上の留学生である。私たちはすぐに仲良くなった。この寄宿舎で本当に仲良くできたのは彼女だけである。彼女はケンタッキーでアルバイトしていたが、やめてからはよく寄宿舎にいた。なので暇なアジュモニと一緒に、1階の台所で、いつも何か食べながらおしゃべりをしていた。バイトから帰ってきて自転車を止めるときに、いつもアジュモニの豪快な笑い声が聞こえてきた。

工事が終わってからは(といっても手抜き工事で、むき出しになった水道管にひびが入って台所が水浸しになったり、廃材は家の前に積みあげられたまま、2階のベランダにも工具が置かれていたりと、いい加減なものであった)工事のおじさん達の出入りもなくなり、したがってアジュモニも3階に来なくなり、自分の部屋のある1階を出入りしていた。彼女は、牧師が東高円寺にも寄宿舎を建てており、その横に韓国惣菜屋もできる予定なので、そこで働くつもりだといった。それまでの間、彼女は留学生ハウスのこまごまとした修理や片付けなどをしていた。

後でわかったのだが、彼女は家賃を払うことなくただの居候で、牧師からしてみれば一部屋アジュモニがいるせいで留学生に貸せない、そんな存在だったらしい。
なのでただでいるのは悪いと思ったアジュモニは、すすんでそういった仕事をしていた。だがそれがあだになって返って牧師を困らせることが起きてしまう。

3階に住んでいる私が1階の扉をあけるのは、最初何となく勇気のいることであった。しかし、チヨンさんが私にみんなが話していることを通訳してくれたので、気持ちを楽にして、中に入っていけるようになった。
「ア、 リウメイ ワンネー(来たねー)。アンジャー(座りなー)」
「ワンネー ワンネー アンジャー アンジャー」
意味がよくわかってないけども、口の中であめ玉を転がすようなかんじで、そうやって韓国語を覚えていった。引っ越してくる前に市民教室みたいなところへ週1回通い、
文法はそれなりに勉強していたのだが、簡単な言葉さえ口からは、出てこないものである。アジュモニにちょっとでも複雑なことを言おうとすると、しどろもどろになってしまい、うつむく私だったがチヨンさんが訳してくれた。
「アジュモニはね、言葉は通じないけど、とても心が通じるから大丈夫といってるよ。明日は銭湯に行こうって。」
彼女の日本語を聞きながら、意味がわからないのに、こくこくと大きくうなずきながら胸に手をあてて、言った。
「マウム マウム ワダシ(私)、ルミコ、マウム」
心か・・。

次の日の夜、お風呂セットを持って1階のアジュモニを迎えにいった。
すぐ近くの末広湯で、私は日本にいながらにしてカルチャーショックを受けた。
湯船につかるのは皮膚をやわらかくするためであって、長く入ってくつろぐものではないらしい。ザッパーンと湯から出た彼女達は、再び湯に戻ることはなかった・・
無言で垢すりをしている二人の体は、長年の垢すり効果で、ほおずりしたくなるくらいのなめらかさで、ぴかぴか光っていた。そんな二つの巨体にはさまれて、私もこすってみるのだが、こすりが甘いらしく、なかなか垢は出てこない。
胸をぐいーと持ち上げて下の部分をゴシゴシ、股をがーっと広げて太ももの内側をゴシゴシ、いきなり立ち上がってお尻をゴシゴシ・・そんな垢すりぶりにあっけにとられていると、アジュモニが私の背中を押さえてごしごしこすりはじめた。

「イテ、イテ、イテテテーーー!!」「モ!?」
モって何?、モって!
「アッパヨオーー(痛いヨーー)」
「アラッソ、アラッソ(わかった、わかった)」
といいながらも、激しいゴシゴシは続くのであった・・
背中が真っ赤になって、私は湯船に足だけ入れて二人をボーっと見ていた。
この二人、いつになったら垢すりをやめるんだろう?
垢すりが終わるとボディソープで足の指先まで丁寧に洗い、また垢すりをし、またボディーソープ、垢すり・・・
もう出ようと催促しても、一向に出る気配はない。結局私が先に出て、彼女達が出てきたのは1時間後であった。チヨンさんに聞くと、湯船につかるよりも垢すりがメインだし、アジュモニの話によれば、銭湯代400円は2時間いてはじめて元が取れる、とのこと。

1階には、チヨンさん以外にも30代後半のおねえさん(チェさんと呼んでいた)、バイトでほとんどいない、髪のきれーいなソンヒ、日本語学科の学生でテグ出身の美人ウ二が住んでいた。
あとは入れ替わりが激しくて名前は覚えていない。チェさんはいつも台所で夜になると、3階のミスクとタバコを吸いながら、ミスクがコンビニバイトでもらってきた期限切れの食べ物をつまんでいた。ビールの缶が何本もテーブルに置かれていた。酔いが進むにつれて声も大きくなりめちゃくちゃしゃべりが早くなった。
いつこの会話がわかる日が来るのか知らん・・
私はアジュモニとチヨンさんとウニと4人で、ご飯を食べるのが何よりも楽しみだった。
『テジガ デルシガン(豚になる時間)』の始まりといって、ウニが、真露ガーデンのバイトから帰ってきた夜の11時半ぐらいからご飯を食べ、コーヒーを飲み、キムチをつまんで、今度はお菓子を食べるのである。
チヨンさんの作る韓国料理は本当においしく、いか入りのトッポッキ、スジェビ(韓国風すいとん)や、きゅうりのムッチム(酢入りコチュジャンの和え物)の味は、今でもよく覚えている。その1階の台所で、私はどれだけの韓国料理を教えてもらったことだろう。辛い、いかにもの韓国料理のほかに、いろいろな料理があることを知った。

中でも驚いたのがカルククス(韓国のうどん)である。韓国風のうどんがあったなんて、韓国に何回も旅行で行っていながら知らなかった。もちろん麺は100円ショップで買ってきた、日本の讃岐うどんで代用していたのだが、アジュモニの作るカルククスのスープは煮干し、昆布両方を入れる。ダシを煮干しや昆布でとるなんて日本だけと思っていた私にとって、結構衝撃的なことであった。そうかそうか隣の国もダシは煮干しなのか。
牛や豚、鶏の動物系だけだと思っていたぞ。

カルククスは今でも私の好物の一つである。インサドン近くにナグォンドンという場所があり、ある小さな路地を入っていくと、ひいきにしているおいしいカルククス屋があるのだが、そこはいつも親父で満杯だ。そんな親父と混じって女を忘れ(元から忘れてるけど)、ファンデーションがまぶたの上でよじれてもおかまいなしで、ズズズーと豪快に麺をすすり早食いし、汗を拭いてふと空を見つめると、寄宿舎でたべたカルククスを思い出す。

1階にはいろいろな人が出入りした。
2階と4階に住んでいる男達も来た。職業として軍隊に8年いたとかで、しゃべり方が、日本語でなんかむかつく命令口調で話すキョンチョル氏と、彼のいとこで、妙に顔の長いチュンギョン、大久保のホストバーでバイトしているといって夕方出かけていくミョンフン、金髪頭の美容師(彼はアジュモニも美容師と呼んでいたので私もただミヨンサと呼んでいた、名前は知らない)。後はどんな人が住んでいるのか知りたいとも思わなかったが、アジュモニが世話好きでみんなに誕生日を聞いて回り、月ごとにわかめスープを作った。韓国では誕生日にわかめスープを作ってお祝いするそうだ。
留学生達はそんなことをすると国のことを思い出してしまうから、やらなくていいといっていたが、アジュモニは毎月作った。