東京デイズ
No.9



 中華生活スタート

 

2階のハルモニが、自分のお姉さんの名前でパスポートを作り、韓国に入国しようとしたがばれて
拘束されその後どうなったかわからない、という話を聞いたのはいつだったか。
その頃私は、というと、高円寺の木賃アパートに引っ越すことに決めて荷物をまとめていた。
韓国に行くまでという約束で、その頃付き合いだした香港男に頼んだら、あっさりOKしてくれたのであった。

アジュモニに、今まで冷たくしてすまなかった、自分の時間がほしかった、アジュモニが嫌いになったわけではなかった・・と私のほうから謝ったとき、彼女はニコニコしながら、お腹は減っていないか?と聞いてきた。
そして、アジュモニは知り合いの韓国人に頼んで、安い引越し業者を紹介してくれた。

韓国人男子二人と小さなトラックがやってきた。
3畳いっぱいにあった荷物がてきぱきとトラックに積まれていく。使うことなくしまってあった父からもらったオーディオセット・・スピーカーもレコードプレーヤーもカセットのたくさん入ったケースも、連絡済という紙を貼って留学生ハウスの目の前にあるごみ置き場に出した。
引っ越すたびになくなっていく私の“所有物”たち。
今ではスーツケースと移民カバン(ファスナーでのびるでかい黒カバン)一つが全てだものね。

アジュモニは、チヨンさんにそうしたように元気でがんばって、韓国に行ったらちゃんとご飯を食べるように、と肩をポンポンと叩きながら言った。

あたしもほかんところいく。ニシアライ、ニシアライ。りうめい知ってる?
知り合いがね、食堂を紹介してくれたんだ。
セキバラ、セッキバラ!ケーセッキバラ!

彼女がセキバラと楽しそうに発音して笑う。
西新井、関原。そのときはどこにあるのか全くわからなかった。
アジュモニの電話はプリペイドで、気がつくといつも電話番号が変わる。連絡手段が携帯電話しかないのだから、ちゃんと管理しておいてね!と何度も頼むとトラックに乗り込んだ。

高円寺の木賃アパートは、日の当たらない1階で六畳一間風呂なし、窓を開ければシダがぶわっと生えている、そんな部屋だった。紹介の紹介で、先輩が・・とずっと香港人が住むようになった
アパートだ。
ずっと部屋にいたら間違いなくうつ病になりそうな、最悪な住環境であった。2段ベッドがドカーんとおいてあり、そのすぐ横には二人座れるソファ、机。もちろんみんなかつて日本に勉強に来ていた先輩たちの置いていった物だ。
私が持ってきたテレビとビデオを置き、パソコンも置くと部屋はいっぱいいっぱい。
そこに二人で住めたのは、お互いほとんど家にいないこと、同居人は夜2時まで赤坂の台湾人経営のバーで働いていて、帰りが遅かったからである。

古い木賃アパートは外国人を呼ぶらしく、上には黒人が住んでいて、朝方にヒップホップの音楽、それに混じって早口フランス語で女とやりとりしている声がよく聞こえてきた。
プウクワーー ジャメジャメ アレアレ トゥ・・あまりにうるさいと同居人が棒で天井をつついて広東語で怒る。
なんて楽しいところに来てしまったのだ!
台所は中華の乾きものの匂いでいっぱいであった。棚にはホリック(好力克、ミロ系の麦芽飲料)が、インスタントのマンゴープリン、ゴマや胡桃の汁粉、冷蔵庫には台湾の肉でんぶ、冬菜、中華風ソーセージがあり、レモンのスライスがたっぷり入った苦い紅茶はポットに用意されていて、朝は店からもらってくるチマキを食べて出勤する、夜は香港で大量に買っておいた海賊版で中華映画三昧、カラオケVCDで狭い部屋でも踊りながらケリー・チャンを歌う・・

韓国から一気に香港へ。香港となると知らない部分が多く、同居人の生活様式に驚いてばかりであった。高円寺の駅近くに日本語学校があり、そこに同居人と出入りしているうちに、いろいろな国の知り合いができた。私は日本語教師でもなんでもないが、そういった学生たちと接することで、
日本にいる外国人の状況を部分的ではあるが、知ることができた。
新しく入ってくる学生たちのアパート探しの手伝いについていったり、なぜか一緒に部屋を見に行ったり。おそらく本国ではそれなりの暮らしをしていたような学生たちが、せまいワンルームを、日当たりの悪かったり駅から遠かったりする部屋を見てがっかりしているのを見ると、少し切なくなった。
まあアメリカだのオーストラリアの華僑とか、お金持ちな学生たちは、日本のブランドもの着て、別の世界で遊んでいたようだが・・

アジュモニとの再会

高円寺の町は面白いし、仕事もそれなりに忙しく、留学生ハウスのことはすっかり忘れていた。
ある日番号のわからない電話が来た。
アジュモニであった。西新井の韓国食料品店で働いているから遊びに来いという。
トブイセジャキソンで来いと言う。わからんよう!
北千住から東武伊勢崎線に乗り換えて西新井へ。まったく初めてだったので反対方向の電車にのってしまったので時間のロス、しかしちゃんと西新井に到着した。
キョロキョロしていると、改札口にアジュモニが。見事な大仏パーマであった。身なりもちゃんとしている。
「アジュモニ、パーマかけたの・・??」
「お洒落しないとね」
びっくり。

小さな商店街に出た。個人の経営する韓国食料品店。
赤いマジックでメニューの書かれた黄色い短冊がたくさん貼られていた。カウンターには5つほどいすが並べてあり、水槽にはアナゴがじっとしていた。
テーブル席が二つ。
カウンターに座ると、お腹が減っただろうとアジュモニはユッケジャンを作ってくれた。
店長は、若旦那というかんじで、遠いところをわざわざ来てくれたね、とスジョングァ(韓国の伝統飲み物、シナモンとショウガの味がしてすっきりしてうまい)の缶ジュースをくれた。

西新井、関原には韓国のお店が多く、昔から済州島出身の人が多く住んでいるそうだ。
アジュモニは昼はカバン工場で働き、夜はこの食堂で11時まで働いてるという。
住むところは?と聞いた。
近所の焼肉屋の2階で、部屋がカーテンで仕切られており、向こう側には親子がいるのだが、父親とその息子の二人だという。。
「カーテンしか仕切りがないだろ、何かあったらって思うと気が気でなくてね・・」
と恥ずかしそうにうつむいた。
アジュモニの女な発言!なるほどなるほど、だからパーマかけて洋服にも気を遣っていたのか!

その一緒に住んでいる(!?)おじさんに、今日りうめいが来ると話をしたらぜひ会いたいということになり、仕事が終わったら来るから、と彼を待つことになった。
その間に、カバン工場が家族経営で、専務がお金をくすねていることを、世話になった社長に言いたいがどうしよう、とか、ミシンがうまく使えないだとかそんな愚痴を聞いているうちに、おじさんが来た。

おじさんはテーブルにつくと、アナゴさばいてよ!と店長に言った。店長とも親しいらしく、店長もいいのをさばきますよ!と返事をした。
アナゴの刺身は食べたことがない。
「アナゴを刺身で食べるのって・・なんかなあ・・」
「大丈夫!ケンニプ(えごまの葉)で包んで、チョコチュジャン(コチュジャンに酢をまぜたタレ)で食べればおいしいよ!」
アジュモニが、ケンニプで包んだものを口元に持って来た。
少し泥臭いかんじがしたが、骨の歯ごたえが面白かった。焼酎を飲めとチャン(ソジュ用の小さなコップ)を渡された。

おじさんは、全羅道(チョンラド・韓国の南西にある)から息子とやってきたという。
田舎には奥さんと娘さんがいる、とロケットペンダントの写真を見せながらニコニコと笑った。
私が韓国のモシ祭り(忠清南道で行われる、モシという麻に似た天然素材の祭り)に一人で行くというと、
今娘に連絡するから、待ち合わせて行きなさい!うちの娘はとてもいい子なんだ!と繰り返す。
本当に連絡してしまいそうだったので、丁重にお断りした。

あっというまに時間が過ぎた。遅くなってしまった。12時を回っていた。
店長が車で送ってくれるというので、店が閉まるのを待った。
アジュモニがちゃんと、新しいところで生活している、彼女を受け入れる場所が日本にあってよかった・・・

店長の車に乗った。途中から男の人が乗ってきた。3人は特に話すことなく黙っていた。
リアーボードに置かれた袋の中のヒラメがピチャピチャとはねる。
明日どこかの家の食卓にのぼるのであろう。
「ヒラメってクァンオですよね・・」
「そう、よく知ってるね。クァンオ、空気がなくなってきて苦しいんだと思うよ。」
「やっぱ苦しんですかね。」
「明日はフェになるんだし、まあ大丈夫だよ、好きにさせとけば。」
深夜1時を過ぎると、都内はスムーズに走れるようだ。
あっというまに早稲田通りに来ていた。だが、間違えてしまって高円寺を過ぎて中野まで来てしまった。あ、行き過ぎてしまった。
店長は、この人も送っていかなきゃいけないから悪いけど戻れないといい、財布から千円を出すと
私にくれた。タクシーで帰れという。自分が間違えたのに、自分でちゃんと帰りますというと、

「韓国行くんでしょ?お土産、トゥングルレ(木の根っこ、香ばしい)茶買って来てよ。そしたらまたアジュモニにあう機会ができるじゃない。」
「でも・・悪いですよ・・」
「いいからいいから、ね、トゥングルレ茶ね。あれうまいんだよね。」
千円を受け取って車から降りた。タクシーを拾ってアパートに戻ると、明かりがついていた。
同居人も戻ってきたようだ。

 

アジュモニに次に会ったときは、もう夏だった。藍色の花柄のワンピースを着ていた。
カバン工場をやめて、焼肉屋一本で週6日で働いて大変だと短く言った。
知り合いの韓国好き軍事オタクのF氏と同居人と私の4人で、三河島にある済州島の郷土料理屋でご飯を食べた。
不思議なメンツであったが、アジュモニといろいろ話ができた。
韓国語ずいぶん上手になったじゃない。でも、あたしの言ってることは簡単だからね、と笑った。

それ以来彼女とは会っていない。韓国に来たときに日本の携帯電話を充電していなかったので、
メモリーは全て消えてしまった。
お金をためるまでは韓国には帰れない、と彼女はコリアタウンを転々としながら、今も東京の空の下で働いているのだろうか。西川口にいたりして・・

韓国で、姿格好が似たアジュモニを見つけるとハッとしたものだ。
アジュモニ、いつソウルに戻ってきたの??と話しかけそうになってしまうことが何度かあった。
たった2年ではあるが、韓国滞在を終えて思うのだ。
私の日本国内留学が一番韓国、な日々だったと。

おしまい