問題なく同居は始まった。Mさんが本当によくしてくれる。 テレビもあるし、パソコンも自分のをわざわざつなげる必要もないし、ご飯も作りたいと思えば狭いながらもキッチンがある。間接照明で雰囲気のいい部屋。お金はないが、夕方帰ってくると簡単な食事を済ませて、静かに勉強ができる。広くてきれいなワンルーム。ルームメイトはほとんどいない。精神的にかなり楽な日々が続いた。
Mさんは、夕方6時ごろ戻ってくると、あわただしく着替えて顔を洗うとすっぴんですぐに出て行く。 近所に和風レストランを出していて-とんかつがメインなのだけど-友達と半分ずつお金を出してはじめた、自分が学院の仕事が忙しいので友達に経営をすべて任せていたのだが、バイトのコがやめて、自分の店でもあるから彼女を手伝っているとのことであった。 とんかつ屋にしては、夜2,3時に帰ってくるのはちとおかしいのでは・・? 結構ミズやってたりして、それはそれでいいのだけれど・・と不思議だった。 次のアルバイトのコが見つかれば、りうめいと一緒にいる時間を作れるから、ごめんなさい、と家を出る前にいつも残念そうな顔をした。
引っ越して3日目に文字メッセージで、 『りうめいのジーンズかわいいからはいていきます、大丈夫だよね?』 と来たときは少しびっくりしたが、彼女は私との距離を縮めるためにいろいろ努力しているのだとわかった。 私もだんだん彼女は本当にいい人なのかもしれない、あの笑顔は本当の笑顔で、変に構える必要はないと考えを変え始めたのであった。 土曜日・日曜日はいとこのSも来て、3人で過ごすことが多かった。 出かければ、果物だのパッピンス、靴、洋服などを買ってくれる。ある時は北漢山のふもとでバーベキューをごちそうしてくれたり。 あんまり気を遣わないでほしいと言うと、自分は情に厚い江原道(カンウォンド・韓国の北東)の人間だから、愛する人にはよくしたい、それが当たり前だ、と言った。 私が時間のあるときに、本を用意してちゃんとした日本語の授業をしようとすれば、ただ 横にいてくれるだけでいい、と笑う。
朝MさんとSの二人は一緒に出かける。SがMさんを学院まで送り、午後は子供の送り迎えをする。 Mさんは、彼にアルバイト料をあげていた。 Sは腕のいい美容師だったがストレスのため体調を崩し、しばらくその世界を離れることに決め、暇だからと店を出した。 外大前(フェギの次の駅、外国語大学がある)で、カフェと飲み屋を一緒にしたようなお店をひとりで切り盛りしているという。店名は『Uターン』。 ある日、Mさんは私にSの昔の写真を見せた。今の姿とは全然違う、女の子みたいな姿かたちにびっくりした。 とてもやせていたので、女物も着ていたらしい。
「あの子は、とても頭が良くて親は大学に入れようとしたんだけど、美容院の学校に行きたいって言ったの。両親は美容師なんて男の職業じゃないって、もし大学に行かないなら息子じゃないって言い切ったのね。 だからあの子は、理解してもらえないのをわかると、奇抜な格好とか髪型で反抗して、結局美容学校に行ったのね。 で、弟がいるんだけど、二人まったく違うの。両親の言うことをよく聞いて、体格のいい男らしい男の子で体育大学に進んで、両親は弟ばかりかわいがって、あの子には冷たくしたの。弟が弟だから、女っぽいかんじがもっと嫌われて。軍隊にいたときはよく上の人からへんなことされたみたい。 ほら腕のところ、今度よく見てみ、4つタバコでつけた跡あるから。」 「な、なんで??」 「そういうふうにやられたのが悔しくて、自分に気合を入れるためなんじゃない?」 「(根性焼きに驚きを隠せず)ええ!でも今はどこから見ても男って感じがするけど・・?」 「除隊してからは、太ったしジムにも通ったし、髪も切ったし、努力したんじゃない?」
家にはあまり帰りたくないので、店を閉めた後は店で寝るかモーテルで寝るのだという。だから外大からフェギは近いので、りうめいがよければSを寝泊りさせたい、というのがMさんのたのみであった。 が、Mさんは面白がって私とSをくっつけようとした。私が意識するように、Sがこう言っていたああ言っていたとニヤニヤしながら言うのだ。 原色のTシャツにワンウォッシュジーンズが好きといえばSにその格好をさせた。 そんなこんなで私も意識してしまい、彼が来ればMさんがからかい、Sも私も赤くなる、そんな日々が続いた。
Sは、日本人と日常的に接するのが初めてだったので、その無邪気な質問がキツかった。 始めはこの人、わざと神経を逆なですることを言っているんじゃないんだろうかと、思ったが、あくまでも無邪気なのであった。 『知ってる?日本はウリナラを植民地にしたんだよ』 『天皇ってたくさん人を殺したのに責任取らなかったんでしょ?』 『従軍慰安婦って知ってる?』 『トヨトミヒデヨシがどんなにひどいことしたか知ってる?』 『日本人の女ってみんなすぐやらせるんでしょ?』
私も私で、日本あるいは日本語に全く縁のないオリジナル韓国人と向き合うのは実は慣れていなかった。私がムキになることでもなかったが、やっぱり気分のいい質問でない。 けれど、お互いの国の表面を見ているだけなら、こんなものだ。 知らないってこわいことだ。 私だって、韓国に興味を持つ前は、新羅高句麗百済・・北朝鮮と同一視して危ない国、日本より20年は遅れている、あやしい文字を使っている、焼肉とエステ以外することがない、朝鮮総督府、伊藤博文を殺した安重根、ミンビ殺害・・江華島なんたら・・とどんどん重くなっていく(笑) しかし、目の前で日本人女はすぐやらせる、っていうのはいくら何でも失礼ではない??性文化が天と地ほど違うんだからとらえ方だって違ってあたりまえ!とキレそうになったとき、 見かねたSさんが、耳打ちした。 「あんなこといってるけど、やつ童貞だから(※1)」
この二人の間に何もないのが私からすれば不思議であったが、彼らは常に一緒だった。 今までに南大門で、ウィッグ(ある新聞に取材を受けるほど儲かっていたらしい)→シルバーアクセサリー→ヒップホップファッションの店といろいろやっていたらしい。 Mさんが江原道からソウルに上京したての頃は、深夜南大門で、食事のデリバリー(ファッションビルを出入りする)をし、朝は個人のプンシク(韓国のスナック類-のり巻きやトッポッキなどを売る店)店でトーストやのり巻きをアルミで包む短時間のバイトのかけもちをしていたという。 私はそういう苦労話は好きなので、彼女の話に聞き入った。
まず断っておきたいのは、自分のヒアリングに多少問題があること、彼女の話は前後していてつながらないこと、の2点である。彼女が話したとおりに生きてきたのかは、みなさんの判断にお任せする。
高校2年生のときに、江原道を離れてテグへ。自炊をしながら受験勉強。親が教師で、 教師か医者か弁護士になれと言われ、医大を受け合格。しかし自分が望んだ進路ではなかったため中退、一旦田舎に戻るが、ソウル大を受け合格。 初めてソウル、清涼里駅に着いたときは、すでに深夜で雨が降っていた。とりあえず旅館に泊まり、これから住む部屋を探さなければならない。 当時は考試院もそんなになく、右も左もわからないので途方にくれていたところ、思い切ってそばを通ったおじさんに話かけた。 おじさんは、近くの旅館に案内してくれ、そのまま去った。
お金もあまりないので、店に住み込んで学校に行こうと思っていたが、そういうところはなかなか見つからなかった。朝アルミホイルでのり巻きやトーストをまくアルバイトが見つかり、夜掃除をするからといってスペアキーを手に入れ、深夜に掃除、店の床にダンボールをしいてそこを寝泊りする場所にしていた。 ある日、その店の近くで、偶然にも清涼里駅で親切にしてもらったおじさんを見かけた。 最初向こうは全くMさんを覚えていなかったが、思い出した後再会を喜んだ。 驚いたことに、彼はその大学の教授であった。
自分の生活について話をすると、自分の子供の家庭教師として家に住み込めばいいと言ってきた。そのおじさんの家は大変金持ちで、家庭教師としてがんばっている彼女を認めて洋服や、車まで買ってくれた。その時期は本当に幸せだったという。 おじさんは、彼女に教師としての道に進むことを強く勧めた。彼女はもっといろいろなことに挑戦してみたい、と南大門で食事デリバリーの時に見てきたことをを生かして、南大門で店をSと出すことに決める。始めはうまくいったがやはり商売、マイナスにならないうちに手を引いた。自分のやれることといったら教師くらいしかない、と考えた彼女は、町の学習塾を開くことに決め、現在に至るという。
お金けっこう持っていそうだなあ、というのはワードローブにシャネルだのアルマーニ、ゴルチェなどが(私もよくチェックしてるなあ)あって、大きな車もあって、ワンルームも広くて・・と何となくわかっていた。
「自分が苦労したとは思わないけど、苦労している人を見ると助けたいって思っちゃうのね、りうめいさんも、あたしができることなら本当何でもするから気軽に相談してくれてもいいのよ。」
7人兄弟の末っ子ということで、一番かわいがられていたのだが、年とった父親の異常な執着に耐えられなくて、いつも望むことの反対のことをしてしまう・・と赤くなった顔で 笑いながら言った。二人でビールを飲むと、いつの間にかそういう重い話が出てくるのであった。 彼女は、そういうことを話すことによって、私たち二人が深くなることを望んでいたようだった。
※1 童貞喪失が早ければいいというものでもないし、それを笑いのタネにするものでもないが、年齢の割に童貞率が高いし、現在でも処女を重視する男性も女性も多い、これはもう性文化の違い。結婚前に処女膜手術する女性も多いと聞く。
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