海外であった韓国の人々
No.3



 オットゥギのカレー粉で

 

 ヨンテさんの父が(以下アボニム)、あなたを迎え入れるのは息子のためです、
息子のしたいことをしてあげるのが息子への愛で、あなたへの愛ではありません、といった時にはびびってしまったが、とにかくヨンテさんが1週間家においてくれるというのだから、その好意に甘えることにした。ヨンテさんのベッドには真新しい布団がかけてあった。そこでゆっくりと眠った。
朝からいろいろなおかずを用意をしてくれて、ご飯を思いきりたべた。

お兄さんが会社の仲間とサッカーをするので、それを見た後に買い物に行こうと車に乗った。日本人の口にあうものを、と昼はうどんを、そのあとはバスキンロビンスのアイスクリーム、小腹がすけば屋台でおでん、フランクフルト。冬の洋服も買い、動きやすい靴も買い、至れり尽くせりのもてなしは本当にありがたいものだった。
家にかえれば、オジンポックム(イカの辛いため)、ヘムルタン(シーフードの辛口スープ)といったごちそう。
こんもりと盛られたご飯は全部食べなければ駄目だと思って、無理してでも食べた。

ヨンテさんが
「君がラオスであずかった手紙の人、住所で電話番号がわかったんだ、それでその人と話をして、君と明日会うように約束した。」

私は、ミョンドンのバーガーキングの前で会うことになり、ヨンテさんは詳しい地図まで書いてくれた。
翌日。冷たい風が吹く。非常に寒い。一体どんな女性が私を待っているのか。
カムの話だと20代後半で、眼鏡をかけ私に似ているという・・。

しかし30分過ぎてもそのような女性は現れない。しかしさっきから30代後半とおもわれるノーメークの女性が出たり入ったりしている。
もしかして彼女??
「すみません、もしかして・・・?」
「ああ、あなたですね(日本語)。」

いきなり日本語で話しかけられてびっくりした。彼女は政府の奨学生として3年ほど日本へ留学したことがあり,現在は外国人に韓国語を教えるための勉強をしているという。
カムにはないしょだけど、私本当は37歳なの。」
しかしさばを読むのにも限度というものがあるだろうに・・・とにかく彼女が日本語ができるということで話すのは楽だった。彼女も久しぶりの日本語を使った会話が楽しいらしく、ひたすら話し続け、カムからの手紙を渡した後も日本と韓国の歴史について、これからの両国の関係について、自分が交流のために何を努力しているか、などについて熱く語ったのであった。

髪の毛もぐちゃぐちゃでそのまま一本にしばり、唇も皮がめくれていてその上に口紅がでたらめに塗られている。そんな彼女は結婚する気はなく、国際交流に力を入れたいとニコニコと笑う。なんだか私もこうなるかもしれない・・
長い長い話もいい加減聞き飽きて、用事があると私は言った。3時間後私は解放された。
そのままミョンドンのミニモール(化粧品が安いチェーン店)に行った。リップグロスの一つでも買って少しでも身づくろいをしなければ・・とそんな思いに駆られたからである。
ユートューゾーンできれいなアクセサリーを見ていたら気分が軽くなってきた。

その後ヨンテさんとミョンドンでスパゲッティを食べた。

つぎの日、見事に風邪をひいてしまった。ミョンドンに出かける時、アボニムが風が冷たいからダウンジャケットを着ていきなさいといったにもかかわらず、男性用のでかいモコモコのダウンジャケットを着て街に出るのが恥ずかしかったので、大丈夫と断ったのである。海外旅行の疲れと他人の家で緊張していたからだろう、熱が出て家で一日中寝る羽目になってしまった。アボニムが風邪薬を買ってきてくれた。

「だから言っただろう。ジャケットを着ていかないから。私の言うことを聞かないからいけないんだ。」と本気で私を怒った。
もちろん私がいけないのである。人の家で風邪で寝込むなんて・・迷惑をかけっぱなしで・・

家でずっと寝ていた。

昼。ヨンテさんが親友に私を見舞うようにいってその親友が遊びにきてくれた。
彼はお姉さんが日本に嫁いで行ったので日本に親しみがあるといい、たどたどしく、
意味は全くわからないが日本語で一生懸命はなしてくれた。

「あ・・あいはえいえんです。」
あ、愛は永遠か・・・。

その時、ノックが。彼が出て行った。
ドア越しに『ごめんなさい、ごめんなさい』といっているのがきこえる。
例のぼけたおじいさんが彼を叱っていたのであった。なぜかというと結婚前の男女が一つの部屋にいてはいけなくて、ドアをあけっぱなしにしなければならないというのだ。

「すっけもの、すっけものくうか?」

おじいさんが私に話しかけてきた。すっけもの??くうかって食べないかってこと??そうか・・おじいさんは日本語が話せるんだ・・この時である、韓国のお年寄りが日本語が話せるということを知ったのは。おじいさんは冷蔵庫からキムチののったお皿をもって、
「すっけもの、すっけもの」
とオウムのように言う。どこを見ているのか視点はまるで定まっていないのだが、私にキムチを食べろといっているようである。

すっけものって、つけもののことか!!

"つ"の発音がうまくでないので、すっけものになったわけである。

親友が帰った後、ふと机の上の分厚い紙の束に目がとまった。インターネットのウェブサイトを印刷したものだった。
それはすべて英語であった。よーく見れば卑猥な単語が並んでいる。
パッポン?××ツアー?タイの風俗の全て?この店の○○嬢は・・・
それは、タイの風俗情報であった。ヨンテさんこんなにも多い情報を・・・
もちろんヨンテさんも男、タイへ行ったらそういう遊びもしたいのは当然だろう。
今でこそ下ネタも風俗の話も楽しく聞けるおばさんになってしまったが、当時は免疫がなかったので、それを見たら一気にヨンテさんが嫌になってしまったのだった。

その夜。会社から戻ってきたヨンテさんが呼ぶ声に、私は答えなかった。
アボニムに風邪の具合はどうなのか云々といったことを聞いているようだ。
自分でもなぜそうしたのか、今でも考えるとヨンテさんに申し訳ないのだが、私はその日からヨンテさんを避けるようになってしまった。

次の朝。オモニム(お母さん)が私にこういった。
「今日は用事があって、夜までだれも帰ってこないから、息子のご飯をあなたが作りなさい。」
小さいおかずはあるからといじわるそうに(私にはそう見えた。)笑うオモニム。
風邪もひいて、ヨンテさんともまともに話さなくなって、観光をしにソウルに出かけて都合のいい時に戻ってきてご飯を食べる居候、そんな存在の私である。

この家に来て4日目、もうあなたは私たちの家族です。でも家族なら手伝わなければならないことがあるというのが彼女の考えであった。道理はあるだろう。
これで、と冷蔵庫から鶏まるまる一羽をとりだして、テーブルにがんっとおいた。
私が全く料理ができないと思っているようで、鶏をどうやってばらすのか知っているか?というようなことを片言の英語、韓国語で私に意地悪く笑う(私にはそう見えた)。挑戦受けて立とうではないかっ。

「あのー、カレー粉ありますか?」

こういうときのカレーだのみ。どこの家庭にも冷蔵庫にたまねぎ、人参、ジャガイモはだいたいあるものである。彼女は、オットゥギ(韓国の食品メーカー)のカレー粉の袋を出した。韓国ナイズされたカレーは妙に黄色くて何の味もしない代物だが、それで作ることにした。

奥の部屋にはおじいさんがいるが、家の中はシーンとしている。
犬は私の足元でじゃれついている。ヘピイよ。私はなぜ韓国で、しかも他人の家で一生懸命たまねぎが茶色くなるまで炒めているのだろう。教えておくれ、ヘピイ。
にんにくとたまねぎの香ばしい匂いがあたりにひろがった。台所の窓からは高層アパート群が見えて、その向こうには山が連なっている。
鶏に包丁を入れて解体完了。別の鍋でにんにくと炒め、切っておいた野菜を入れてさらに炒める。
帰って来たヨンテさんは『こんなおいしいカレーは今までではじめてだ。』とほめてくれた。夜帰って来た母親も2皿食べていた。どうやら大丈夫なようだ。

初めての釜山

5日目。私は釜山へ行くことにした。国際映画祭のためだ。

その時に完全にこの家から出て、仁寺洞の旅館にでも泊まってそのまま帰国すればよかった。しかし東南アジアで買った荷物があまりにも多すぎて身動きが取れなかった。
それゆえこの家族に甘えることとなってしまった。
セマウル号にのって釜山へ。駅の公衆電話にくると、タイで会ったキョンデさんの連絡先を取り出した。電話をしたが誰も出なかった。
あほうなことに、その紙切れを電話の上に置いてそのまま出てきてしまった。
10分後、紙切れがないのに気がついて元の場所に戻ったが、すでに風で飛ばされたのか何もなかった。

釜山には知り合いはいないし、来るのも初めてである。
今まで誰かの下宿や家に泊まってきたので、自分で宿を探したことはない。
必ず誰かが助けてくれていた。このとき、初めて韓国が私にとって外国となった。
地下鉄に乗って釜山の一番の繁華街、ナンポ洞にいった。

PIFF広場と呼ばれる通りには人が多く行き来していて、たくさんのボランティアが案内していた。その頃は外国人のための案内デスクなんてなく、右も左もわからないまま、どうやって切符を買えばいいのだか途方にくれていた。
ボランティアをつかまえて聞いてみるのだが、かれらはずっと銀行の口座はあるか?といってくる。今でこそ、釜山銀行のATM、そして臨時切符売り場で簡単に買えるのはわかっているが、なぜ銀行に行く必要があるのか、そのシステムがまったくわからなかった。彼らは私を釜山銀行に連れて行って、彼らのうちの一人が自分の口座で私のチケットをかわりに買ってくれた。
何を見たかは覚えていないが、2作品。通りの入り口近くの、今は取り壊されてない映画館で見たと記憶している。

チャガルチ市場を何となく歩いて、ソウルとは違う雰囲気を海の風とともに感じた。
気がつくともう真っ暗だった。
裸電球一つの屋台で、なにかよくわからないまま注文したソンジクッが夜ごはんであった。ソンジは牛の血を固めて作ったもので、かなり独特な食べ物である。
私の言ってることが全く通じていないようで、おばちゃんは何を言ってもケンチャナ、ケンチャナとしか言わない。キムチをくれたのだが、これがまた生ごみの味で(といっても食べたことないが生ごみの味といったらその味なのだ)
あまりにくさくて吐き出してしまった。目の前の器にはグロテスクなソンジ。口の中は生ごみ味のキムチ。こんなまずいご飯をたべながら、まだ宿も決まっていないのに・・
ナンポ洞にもどって、ヨンテさんに電話した。

「ソウルでの親切本当にありがとうございました。そのありがたさが今釜山に来てわかりました。キョンデさんにも会えなかったし。」

すっかり弱気のワタクシ。

「ふーん、自分で何でもできると思ったようだけど、実際はいろんな人に助けられてるってことよくわかったでしょ、今回の釜山の旅で。」
「まだ、ねるところも決まってないんですけど、ふつう安いホテルっていくらくらいでしょうか?」
「まあ、最低5千円はするんじゃないのかな、今映画祭だし。まあ気をつけてかえってきてよ。」

電話が切れた。このときに私は自分が思った以上にヨンテさんによりかかって、韓国を旅行していたことに気がついた。いかん、いかん。

ナンポ洞の裏のほうに温泉マークが見えたので、坂を上っていって旅館を見つけた。
いかにも連れ込み宿といった風情の旅館が、ならんでいる。
暗い受付の窓をコンコンとたたいた。

「あの、一人なんですけど。」

その時外でおしゃべりしていたアジュンマ3人がケンチャナ、ケンチャナといいながら部屋へひっぱっていった。
オンドルのきいた床の上にベッドが置かれている。もちろん浴室の石鹸にはお約束通りというべきか、髪の毛がひっついていた。いつの時代のものかわからない古臭い化粧水と乳液が一面鏡に置かれている。

テレビの音量を大きくした。こんなに切ない夜は初めてだ。
ベッドに入って考えた。私は本当にひとりでは何もできないのだろうか・・。