タイの国境の町ノーンカイから友好橋をわたるとラオスだ。 首都ビエンチャンでの1泊は全く最悪で、できれば記憶を消し去りたいほどである。 翌日朝ごはんにバゲットサンドと、どろどろであまあまの、もちろんぬるめのコーヒーを飲んで、バスターミナルへと急いだ。 山道をえっこらえっこら上り下りして6時間ほど行ったところにルアンプラバンがあるのだ。だが結局8時間もかかった。
ルアンプラバンに行く目的は、その1、蟹のしょうゆで味付けたパパイヤサラダを食べるのと、その蟹のしょうゆを手に入れること、その2、寺を見る、それだけであって、基本的に田舎を旅行するのは好きではないので、ラオスは首都でさえ何もなかったのだから、ルアンプラバンは全くもってアウトであった。到着後二日目にはすっかり飽きてしまい、1日5食は食べていた。食べることくらいしかすることがなかった。 町で唯一というディスコに連れて行ってもらったのだが、オーキャロルにあわせて大きな白人女性が、ランバダのようなくねくねした踊りをしていて、興ざめであった。 私の前では、バス旅中知り合ったラオスの男の子の母親が、無表情でひまわりの種をかんでいた。 テーブルにはひまわりの種のカスが散らばっていた。
ワットシェーントンは、本堂の壁のモザイク画が美しいので有名だ。 『銀花』という文化出版からでている中高年向けの渋い雑誌に、ルアンプラバン巡礼の特集があり、その中の写真にすっかり魅了されてしまい、一目見たいだけでここまで来てしまったのであった。日差しだけがギラギラと照りつけ、人も空気も川も動いていないようなある静かな午後、ルアンプラバンの一番端に位置するその小さな寺は、2~3人くらいの観光客だけ。少年僧が暇をもてあましていた。 ほっぽらかしにされているのでは?というような褪せた壁画、人に見せようという気のない暗い暗い宝物殿。その宝物殿に少年僧が5人くらいいた。彼らは観光客慣れしていて流暢な英語を話した。その中のリーダー格ぽい少年が優しい声で言った。
「あなたは日本人?韓国人?」 「韓国人」 「アニョハセヨウ、チョヌンカムイムニダ」 「え?韓国語わかるの?」 「ネー」
彼は約2ヶ月くらい前に、この寺を訪れた韓国人女性から教えてもらったのだという。 そして文通を始めたそうだ。私が日本人だとわかると日本語ノートも見せてきて、不細工なひらがなで“かむ”と自分の名前を書いて得意がっていた。勉強熱心である。 彼の書きかけの手紙を見ながら、考えが浮かんだ。
「あたし、韓国行くから、その人に君の手紙直接渡したら面白くない??」 「え?韓国行くの?」 「その人、いきなりたずねてラオスのカムからですって言ったらすごくびっくりするだろうなあ」 「びっくりさせたいの?」
こくっと大きくうなずくと、彼は、自分の部屋に明日来いと言った。少年僧たちの部屋でもお邪魔すれば、この退屈なルアンプラバンでも思い出ができるというものだ。
翌日、少年僧の寄宿舎のようなところに行った。ターメリック色の法衣を素敵に着こなした男の子たちが、好奇心全開でこちらを見る。カムと私をみてにやにやしながら, 冷やかしてからかうので、カムが怒っているようだった。彼から手紙を受け取り、その女性の特徴をおしえてもらった。 歳は29歳、眼鏡をかけていて、少し君に似ているといった。
手紙を直接渡すと約束しておきながら、その住所を尋ねて行くにはソウルを知らなかったし、電話番号もわからない。まあ行けば何とかなるだろうと変な自信があった。
親切はいつまでも続かない
10月のあたまというのに、なぜこんなに寒いのか。東南アジアにいてほぼ夏服しか持ってこなかった馬鹿な自分を呪った。 韓国、半端じゃなく寒かったのだ。金浦空港から電話をすると、知り合いはかなり驚いていたが、勝手に下宿に来て寝てもいいということで話はまとまった。ソウル大入口はこれで3回目。駅からマウルバスに乗って下宿をちゃんと探し当てることができた。 というより、他の場所は全くどこがなんだかわからない。 下宿のアジュモニは突然の訪問にこれまた驚いていたが、私がご飯をおいしく食べるのを気に入っていたので、早速ご飯を食べさせてくれた。 知り合いは、夜は彼氏のところに行くので遅くなるとのこと。招かざる客は、銭湯でさっぱりしてから、新林洞の町並みを懐かしく見学し、その後は映画を見に行った。 『島』(キム・ギドク監督の痛い映画、日本では『魚と寝る女』というわけわからないタイトルがついて上映された。) 帰り、タクシーのおじさんに、知り合いはつきあってくれないなんて冷たいねだの、 一人で映画を見るなんて、といろいろ言われているうち少し寂しくなってきてしまった。
知り合いの下宿している部屋は半地下で、部屋以外の電気は節電のためにいつも消してある。オンドルの効いた部屋でごろごろしていると、ふとSKの名刺のことが浮かんだ。外に出て公衆電話を探した。受話器を持つ手が寒さで震える。
「チェヨンテです」 「あの、タイでお会いした日本人の・・」 「待ってたのに、連絡来ないから心配したんだよ!布団まで新しいの買って待っていたのに、今から迎えに行くから」
布団まで新しいのを買って準備していたとは・・一応ソウル大学の正門で待ち合わせをしたのだが、正直言えば、彼の顔は全く覚えていなかった。 暗がりの中で一人の男がきょろきょろしているのが見えた。 目の腫れがひいていて、最初は誰かわからなかった。あの人かもしれないけど、顔覚えてないし・・・男が声をかけてきた。僕の顔なんてすっかり忘れてしまったようだね、と肩を落として少し笑った。
「すみません・・」 「いやいやそんなもんだよ、で、荷物は?」
私は手ぶらだった。もう10時を過ぎているし、その辺で少しお酒をのんで、次の日訪ねていけばいい程度に考えていたのだ。彼は今から家に行くらしい。アニャン市という聞いたこともない市名を言った。彼を下宿に案内しようと、中に入ると、知り合いが戻っていた。 「あれ、どっか行くの? 「うん、なんか家で用意してあるらしいから、そっちに行くよ」 「そっかー、それはラッキーだね。」
彼は荷物を運びながら、こんな汚くて狭いところに君は泊まるつもりだったのかといった。そんなにこの下宿が汚いかなあと不思議だった。 韓国家庭のレベルはよくわからないが、彼の家は高層アパートの最上階で、13階と14階が階段で行き来できる6LDKであった。 ベトナムとタイで買いまくった調味料や、雑貨の詰まった大きな袋を見て、彼の母親はずっと苦い顔しながら「イサンハダ、イサンハダ・・・」と言っている。 彼女は見ず知らずの私を家に招くのを歓迎していなかった。 父親は日本に5年も住んで仕事していた経験があるので、ネイティブ並みに日本語を話した。 ヨンテさんの兄は東亜日報の記者、その奥さんはタイ航空で働いており、毛並みのいい家族である。
彼らは隠すようにしていたが、ボケたおじいさんがいるのがわかった。それと、ハッピーという名のマルチーズ。韓国式英語では“ヘピィ”となる。後半はこのおじいさんとヘピィにどれだけ慰められたことか・・ |