短編



   
ほくろ

 

隣で心地よく眠っていた彼女が、僕の手を持つとまじまじと見つめはじめた。

「人差し指の指先にほくろがあるんだね。」

「ああ、これ?テントウムシのせい。」

「え?噛まれたの?怪我したのが残っちゃったの?」

そうじゃなくて、と僕はこの前あったことを話し始めた。

この前の日曜日、夕方にさ、窓を開けっぱなしにしてタバコを吸ってたんだ。
一匹のテントウムシが入ってきて。ナナホシの。
畳に着地するとソロソロと這い始めた、片方の羽はしまい忘れたまま。それが本当にかわいくて、別に殺すもんでもないしってそのままにしておいた。

次の日会社から戻ってきて部屋の電気をつけると、まだなんとなく気配を感じる。
そのナナホシテントウまだいたんだ。踏み潰さないようにちょっと気をつけて、冷蔵庫からビール缶出して飲みながら観察。

本当に点が七つあるのか数えたくて近づいた。
エナメルみたいにあんまりツルツルしてるから触りたくなって、人差し指をそっと置いたんだ。そしたら点がぎゅうっと集まりはじめて指先に吸い込まれて、ただの真っ赤な虫になっちゃった。点はどこに行っちゃったんだ?
指先をゆっくりとこちらに向けたよ、したらポツって黒い点があって。

僕はただ指先にできたほくろを見てた。
この点は持ち主に返したほうがいいかも、だって点がなくなったらテントウムシはテントウムシじゃなくなっちゃうじゃんか。
ただの赤い虫になっちゃうじゃんか。
でも、ちゃんと7つに散るのかな・・・・

と思ったときにはもうヤツはいなくなっていた。
だから窓の網戸は開けっ放しにしておいた。

「じゃあ、このほくろはテントウムシの点なの?」
信じられないといった表情で僕を見つめる彼女。僕の手をつかむと自分の左の乳房の上に指先を置いた。
指先をそっと離すと、そこにはほくろができていた。

七つの点がぎゅっとつまった濃いほくろ。
僕は彼女の乳房にそっとキスをし、そして彼女を抱いた。
今のところ、そのほくろは彼女の唇に小さくのっかっている。

 

 
つるかめ

 

新宿西口の思い出横丁は、終戦直後の闇市のような雰囲気を今も色濃く残している通りである。安食堂・安呑み屋が軒を連ねていて、流れてくる焼き物の煙に顔をしかめながら、そぞろに歩くのは楽しい。
この通りの真ん中あたりに、つるかめという食堂がある。
メニューを書いた短冊が壁にびっしりと貼ってある。
低めのカウンターがぐるりと厨房を囲んでおり、そのカウンターに沿って丸椅子がいくつも並んでいる。席が埋まるとその後ろを通ることは難しくなる。
頭よりちょっと上の部分にガラスケースがあって、そこには作り置きのおかずが並んでいる。
私はそこでいつもソイ丼をたのむ。
アタマは大豆とひき肉をカレーで味付けたのもので、安っぽいケミカルなピンク色のハムがのっかっている。ボリュームがかなりあるので、一つを二人で分けたって大丈夫なほど。

がたつく丸いすに座り、バランスをつかむとソイ丼をたのんだ。
カボチャの煮つけが食べたかったので、少し前肩のおかみさんに
「あとカボチャ」
というと、ショーケース(たいていの惣菜は疲れた感じをしている)をのぞきながら、
「今日はカボチャはないけど、おいもをレモンと煮たのがあるよ」
といった。

「じゃあ、それください。」

私の横でビールを飲んでいた親父がひとりごとのように、
「レモンでいもを煮るんだ、へえ。」
とつぶやいた。

「今、おいも高いですね、中くらいのでも500円しますよ。」

そんなにするかなあ、と会話を聞きながら、不恰好な細長い器に、いい加減に盛られたおいも煮に箸をつけた。
レモンの皮はクタクタで、さつまいもの皮の色は変色し、見た目が悪かった。
けれどもレモンの酸味、おいもの甘味、レモンの皮の苦味が口の中に残ってなかなかおいしい。

酔っ払いの親父の独り言が店内に響いている。

親父は、今この店にいる人たちをこれからカラオケに連れて行ってやる、とおしんこをちょびちょび食べながらいった。
親父はうるさいけど、彼みたいにおしんこだけでビールを飲めるように私もなりたいと思う。

店の人がスプーンに何かのせてそれを一点に見つめ、真剣な顔つきでこっちに来ようとしているのが見えた。
綱渡りをする曲芸師のように見えるのは、彼が白くて長いゴム靴を履いているからだ。

何をしているんだろうと思ったら、私のおいも煮の皿にポトンとおいもを一つ落として、にかっと笑った。

 

 
携帯電話

 

8時までの残業を終えて彼女は家に帰る。
右手にぶら下げたコンビニの袋の中には、菓子パンと牛乳とプリンとポテトチップス、幕の内弁当に缶ビールが入っている。
お弁当屋で豚の角煮弁当、ケーキ屋でチーズケーキとマドレーヌも買った。

生活感のない彼女の部屋は、見ようによっては洒落ている。
遊びに来た友人たちは、こんな部屋に住みたいとよく言う。

時間のあるときに無印良品で一通りそろえ、インテリア雑誌を少し参考にしただけだ。
彼女は、この部屋から富士山が見えないことが気に入らない。

見えるのは電線で区切られた東京の気難しい空と、すぐ横の家の壁。

彼女は玄関マットの上に、3つのビニール袋をいっぺんに置いた。
そして鍵をいつもの場所にひっかけた。
とりあえず冷蔵庫を開ける。彼女の習慣だ。

テーブルの上にはリボ払いやら携帯やらの請求書が、未開封のままたくさんおいてある。彼女は、先ほどのビニール袋をテーブルの上に置いた。
請求書に埋もれていたリモコンを探してテレビをつけた。
豚の角煮弁当を広げて食べ始めた。それをビールで流しこむ。
半分残そうと思って割り箸でごはんを区切ったが、数分後、小梅の種がカララと音を立てた。

 

テレビだけが彼女の顔をいろいろな光で照らしているのではなかった。
先ほどから電話の赤いランプがピカピカ光っていた。
彼女は仕方なくといった感じで部屋の明かりをつけた。

そして次に電話の再生ボタンを押した。
テープの巻き戻される音がいつまでも続くように思えて、彼女はうんざりした。
母からだった。

“あーお母さんだけど、明日の夜こっちに帰ってこれない?お父さんが休みだから、みんなでステーキでも食べに行かない?”

ステーキでも食べよう、というところを楽しそうに話す母。
帰りの電車の中で、携帯電話の着信履歴を今日も何度確かめただろう。
留守電なんか入れなくてもいいのに。
携帯に電話してくれればいいのに。

何に対していらだつのか彼女もわからない。何を待っているのか、といったほうが正確かもしれない。
今食べようとするプリンのふたがうまく開けられなかったので、きっとそのせいでいらだっただけかもしれない。

チーズケーキを食べていたときに、それが来た、と彼女は思った。
かさばるお弁当のカラ箱を袋に入れて、口を閉めた。

トイレに入って座り込むと、人差し指を口の中に入れて舌を強く押した。
しばらくは唾液しか出てこなかった。

この前は失敗に終わったので、そんなの困ると力を入れて舌を押す。
全然出てこない。かわりに鼻水と涙が出てきた。
たくさんの涙で便器がぼやけて見えた。まばたきをすると涙がこぼれた。
彼女は泣いてるみたいでイヤなので、笑ってみる。
でも苦しいのですぐやめる。
黄色いものがするすると便器の中をすべっていった。
チーズケーキは全部出たみたいだ。時間はたっていないので酸っぱい匂いはしない。
しばらくすると、豚の角煮が出てきた。
彼女は嬉しくてしょうがなかった。時間も戻しているようで。
さっきのはなかったことにできる。

流れる水を、彼女はなみだ目でずっと見ていた。
彼女は、甘い香りのあんまり泡立たない石鹸で手を洗った。
充血した目、マスカラが落ちてよけい疲れを強調したみたいな顔が鏡に映っている。

手をタオルでふき、母に折り返しの電話を、と携帯電話を取り出して開いた。
ピ、ピ、ピとボタン音が鳴る。
彼女は親指と向かいあっている人差し指を見て、指の動きを止めた。
関節にタコができていた。土色した吐きダコだった。

彼女は携帯電話の電源を切り、充電器にセットするとベッドに洋服のまま寝転んだ。
でもまたすぐに電話機を外し、電源を入れるのも彼女の習慣の一つ。