ちょっと余裕のある旅行だと泊まるホテルの選択も楽しみの一つだ。 渋いたたずまいのウェスティン朝鮮、山の上からソウルを見下ろすように建つハイアットや新羅、テレビドラマのロケでよく使われるというラディソンプラザ、漢江の眺めが素敵なカジノのウォーカーヒル・・・
五つ星ホテルだからといってパーフェクトというわけでもないのが、ホテルの面白いところ。 場所、雰囲気、施設、値段・・旅行者がどこに価値を置くかで違うのだが、ホテルの歴史に憧れて泊まる人もいる。 黙っているように見える建物だが、こちらさえその気になればいくらでも面白いエピソードを話してくれる。 けれど、残念なことにソウルにはそういった“クラシックホテル”が一つもない。
1995年、誰の関心を集めることもなくこっそりと姿を消した古いホテルがある。 そのホテルの持っていたエピソードも、建物がなくなると同時に人々の心に残ることもなくなってしまった。
かつてはこんなホテルもあったと・・・ ある古いホテルのお話のはじまりはじまり。
韓国の近代ホテル史
“クラシックホテルがない”と言い切ってしまったが本当にそうなのかしらん? 軽く韓国の近代ホテル史を。
大佛ホテル(1889): 仁川に作られた韓国初の近代ホテル。設計者は堀力太郎という日本人。外国人相手のホテルが繁盛するとわかると、このホテルの向かいに中国人経営の“スチュワードホテル”ができたそう。
ソンタクホテル(1902): このホテルが今回のお話の主人公。
鉄道ホテル(1912):プサンにできたホテル
朝鮮ホテル(1914): 大型の近代ホテル。1970年にウェスティン朝鮮へ。
半島ホテル(1936): 1974年にロッテホテルに。
東莱ホテル(1962):韓国人の手による経営の先駆者的ホテル
シェラトンウォーカーヒルホテル(1963):ウォーカーは、ソウル北方で戦死した米8軍司令官ウォルトン・H・ウォーカー将軍の名にちなんでつけられたそう。
ということで、今ソウル市内にあるホテルで一番古いといっても、1960年代前半に建てられたもの、と考えてもよいのではないかと。
ソンタクホテル
ソウル市内の宮殿の中でも、観光地として人気ある“徳寿宮(トクスグン)”の裏ッ側に貞洞(チョンドン)という街があるのだが、この界隈の雰囲気は西洋の街そのものだ。 西洋風の建物が多く、散策するのがとても楽しい穴場の一つである。
1895年 閔妃(ミンビ)殺害の事件の後、時の皇帝・高宗(コジョン)がこのエリアに移り住むようになると、彼の命令で西洋風建築の設計を頼まれたロシア人のサバティン(イワノビッチ・セラディン・サバティン)は、上海からこの地にやってきて仕事をした。 その仕事のうちの一つが“ソンタクホテル”である。
マダム・ソンタク(アントワネット・ソンタク)が韓国にやってきたのは、1885年10月。 ロシア公使として赴任したベベールの義姉で32歳の未亡人のドイツ人。 彼女は徳寿宮の御用係として、王室の西洋化のお手伝い。 ロシア公館の外国人接待も彼女が引き受け、彼女のおうちはハイソな人々のための大事な集まり場所となり、日清戦争後にはアメリカ人メインの社交クラブ“貞洞倶楽部”の中心になった。
10年後、皇帝に気に入られた彼女は徳寿宮内の土地の一部をもらいうけ、 1902年にソンタクホテルを開いた。 西洋風のこのホテルは、1階が普通客室・レストラン兼カフェ、2階が特別貴賓室となっていた。 1904年3月、1905年11月にはここに伊藤博文も宿泊している。
当時、このまったくハイカラな場所を一目見ようとする人々でホテルの周りはいっぱいだったそうだ。 外国人たちの社交場として大切な役割を持っていたこのホテルは、韓国で初めてコーヒーを提供した場所でもあり、ソウルで初めて洋食が食べられるレストランがあったということで、その存在意義はとても大きい。 韓国の洋菓子の事始め、の記事にもソンタクの名前が出てくる。 (バターとかどこからどうやって手に入れてたのか、ものすごーく気になるのだが。)
ちょっとピンボケしていますが、ソンタクホテルの広告。 1907年6月15日付け。 Formerly
imperial household private hotel (前王室御用係のプライベートホテル) From
Seoul to Europe in 15days via Antug-Mukden or Chemulpo-Dalny (満鉄安奉線あるいは仁川大連経由でソウル‐ヨーロッパ15日間)
日露戦争が勃発するとソンタクはフランス人にホテルを売り渡し、他のロシア人たちと同じように上海へ疎開したのち、ロシアに戻ったが革命のために没落して1925年に亡くなったという説と、王宮の厨房にいた朝鮮の子供をつれてフランスへ行き、そこで亡くなったという説があるが、彼女の行方は謎に包まれている。
ソンタクホテルは、1917年に韓国でも有名な女子大学・梨花大学の寄宿舎として使われ、1922年にはホテルは壊されてアメリカ人の設計によって寄宿舎・教室・実験室・食堂などもある複合施設“フライホール”と呼ばれる建物が作られた。 1925年に新村のほうに大学が移転したが、このフライホールは1975年火災によりなくなってしまった。
何南(ハナム)ホテル
朝鮮戦争後、フライホールの隣に建築材を集めて改修・補修して作られたのが何南ホテルだ。壁はソンタクホテル・フライホールの時のものが使用されていた。1969年に3階建ての新館が作られたのだが、特別に建築家が設計したものではないんだそうだ。でもこのモダンなアーチと“何南”の漢字のかもし出す雰囲気はただものではないぞ。
1973年に大阪に住む在日韓国人・徐在植(ソ・ジェシク)がホテルの持ち主となり、ひっそりとした貞洞で活躍していたのだが、施設の老朽化もあり宿泊客も減って経営が苦しくなり、ついに1995年にその歴史を静かに閉じた。
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