1.
父は競馬が好きだった。4歳くらいからの記憶では、家族で週末は野毛に来た。
馬券を買いにだ。野毛に場外があった。
大阪屋という何でも屋(質屋?)のせまい道を入っていき、車をさっととめると私を連れて場外へ向かう。競馬新聞“勝馬”を持って。
父は手をつなぐのを嫌がった。ベルト通しに指を引っかけて私は父についていった。
私の視線の高さでは、グレイか茶色の地味な服装をしたオヤジたちの腰の位置くらいまでしか世界はわからない。
ガムがあちこちにはりついているのをよけながら歩いた。
父は自販機のポタージュを買ってくれた。底のほうにポタージュの素がどろりとたまっており、上の部分は薄くなっているのであんまり好きではなかった。

野毛は幼心にも“イケナイ町”とわかっていた。
女の人の裸のポスター、なぜあんなに痛そうな顔をしているのか。
コップ酒を飲みながらフラフラ歩いている人、食堂から聞こえてくる競馬実況中継、派手な化粧の女の人たち。

間隔の広い鉄の階段をカンカンとのぼってゆくと、薄暗い空間が広がっていて、オヤジたちがブラウン管にくぎづけになって野次を飛ばしている。紺色の制服を着たおばちゃんがずらっと並んでおり、仏頂面でキーを打っている。オヤジたちは列を作っていて、父と私も並ぶ。
父が昨日の夜考えに考えた数字を読み上げると、オレンジ色の数字がカチャカチャと現れては消えていく。

小学校に入ると私は父と場外に行くのが嫌になっていた。
「あたし車ん中で待ってる。」
妹を連れて行こうとしたが、妹は汚いからイヤ!と怒った。
父が勢いにまかせて閉めるドアの音に私たちは驚く。

母がイライラした声で、
「こんなところに車とめて、早く帰ってこないかね、くそじじい。」
と言う。
窓を閉め切った車の中にいてよかった、となぜか安心していた。
こんな汚い街、こんな汚い街なんかキライ!
競馬‐それでちょっともうかったオヤジが行くソープ・もしくは飲み-スッってしまったら質屋か町金融‐お金がなかったら安劇場でストリップもしくはポルノ映画‐平日はパチンコ・・・と欲望が描くパーフェクトな円と、素敵に完結した歓楽街の良さをこのときは知るはずもなかった。

 

2.
野毛には動物園がある。野毛山動物公園に向かう野毛坂の角には仏具店があり、大きくてピカピカした観音像はこちらに向かって微笑んでいるようだった。
坂を上りきるとキリンのゲートが見えてくる。
そこをくぐって、『平均的な家族の一日』を過ごした。私はキャラメルコーンを買ってもらうのが
嬉しかった。

・・・・2,3歳くらいかな、クルクルにパーマかけててね、ガイジンサンがあんまりおまえがかわいいから写真を撮らせてくれといってよく撮っていったな。でも今じゃあねえ・・

ためいきをつかれても困るのだが。

この公園に家族で夜にやってきて、柵と柵の間へうさぎをそっと置き、何度リリースしてしまったことだろう。
無責任な飼い主だ。気まぐれに飼ったうさぎを、引越しのたびにここへ放してしまった。
小動物コーナーで新たなうさぎ人生を送れるように、と野毛山動物公園を選んで放してしまった。

 

3.
(学生の時の日記より)
たまたま市立図書館で、ジャズ評論家としても有名な平岡正明責任編集の『横浜ハマの毛B級譚』を見つけてしまった。
ハマ野毛という、野毛を愛する住民らがB級のタウン誌を作っていて、大道芸の街・野毛を全国(気合はね)に広めようと作られたらしい。それをまとめたのがこの本である。
開けば平岡氏の友人田中優子先生(※1)も書いていた。元ゴールデンカップスのギタリスト、横浜で知らない人はいない(!?)羅紗メン“メリーさん”(※2)、美空ひばり、ジャズ喫茶ちぐさの親父さん等について、かなり面白い視点で地元の人々が愛情たっぷりに語っている。
日の出町、黄金町、寿町、福富町と名前を聞いただけで嫌な顔をし、なるべく京浜急行に乗らないようにしていたのだが。
この本に出会い、“え、野毛って面白いんじゃん??”とすっかり方向転換。いつも石川町(中華街と元町)からまっすぐ帰っていたのをやめて、野毛を散歩コースにした。

仏具店が多い理由もわかった。動物公園の近くに神社があり、坂を下る途中に隣り合うようにして
寺もあるのだ。神社の急な階段からは野毛を一望でき、お洒落なベイサイドも見えて、ここなら
“ジモティハマっ子がそっと教えてくれたナイスビュースポット(Hanakoあたりで)”として紹介できると踏んだぞ。
場外はJRAと立派な無味無臭なビルになっているが、周りの風景は小さいときに見たそれと変わっていない。串揚げの屋台のオヤジやノミ屋のオヤジの周りには人が集まっていて、ポツンポツンと看板もちのオヤジがいて、素敵にディープ。
ストリップ劇場“日の出ミュージック”は最近店をたたんでしまった。外に放り出してあった真っ赤なマットレスが切なかった。(※3)

私は男じゃないので(もし男だとしても多分行ってなかっただろうけど)、フーゾクな店が軒を並べる横丁を楽しむことはできない。
けれども“柳通り”はなかなかの風情があってよい。ここは秋に虚無僧行列が見られる。
オレンジの灯りに柳が揺れて、なのに飲み屋とソフトなフーゾク店の通り。歩くのは楽しい。
月が出ていたりしたらもっと詩的だ。

B級譚は実に影響を受けた本だ。忘れられない。絶対に忘れるもんか!バカな自分は貯金しようとした現金2万円を、“ちょっとの間だし”としおり代わりにはさみ、そのまま返しちゃったのだ。

※1 大学教授・江戸に造詣が深く美人
※2 真っ白な化粧は鈴木その子といい勝負の、元ストリートガアルのおばあさん。
   あの当時でも客を取ろうと街を歩いていたのか?服装も派手で人目を引いた。
※3 新装開店して営業を続けています。