飛行機の窓から眺める景色。韓国は地震がほぼない、と言ってもいいのでマッチ箱のような高層アパート群がたくさん見える。装飾に力を入れないのかみんな同じに見える。ああ、韓国だなあと思う。 ふとしたきっかけで、この国のアパートの始まりが日本に深くかかわっていると知った。 それではアパートのお話を。
三国アパート
建築について知らなくても、同潤会アパートの名前は聞いたことがあるかもしれない。表参道や代官山を歩いていて、古いアパートのたたずまいにふと足を止めたことがあるかもしれない。同潤会アパートは老朽化が激しく、再開発計画のために大部分は取り壊された。 しかし今でもこのアパートの魅力にはまる人は多い。 関東大震災以後、都心のアパートの需要は高まっていた。 1925年より、同潤会という財団法人が都市計画に基づいて、畳のあるアパートを建て始めた。最終的に16ヶ所、109棟(2508戸)が作られた。 公園、食堂、娯楽室、診療所などが入ったアパートもあった。同潤会は1939年に解散、日本住宅営団に変わる。
この同潤会のアパートがソウルにも実はあった。 そしてそのアパートが韓国で最初に建てられたものだという説があり・・ って結構驚くでしょ?
1930年に建てられたソウルの会賢洞(フェヒョンドン)、つまり京城の旭町の三国アパートが韓国で最初のアパートと言われている。同潤会アパートの平面図をそのまま導入して作られたそうだ。 三国商会という会社が多田工務店に設計と施工を頼み、南山へと向かう傾斜地に作られた。 3階建て、1フロアに18坪で2戸、計6戸。1戸に6畳・8畳の畳部屋があり、スチーム暖房を設置、水道・電気も整っていた。屋上には洗濯場が設けられた。
会賢洞のアパート
三国商会は日本人土井誠一が設立した南大門付近にあった会社で、もともと燃料になる練炭を販売していたがアパート事業もやっていた。 1935年に内資洞(ネジャドン)、厚岩洞(フアムドン)にも建てられたが、内資洞のアパートは終戦後ホテルとして、米軍の宿舎として使われた。
内資洞のアパート 厚岩洞のアパート
京城大和宿
“ムギョンは軽やかに跳ねまわり、そして壁のスイッチを押した。 天井からの明かり、ベッド脇の卓上に置かれたスタンドの明かりが同時について、広くはない部屋の中がシヒョンの目の中にすみずみまで入ってきた。 このテーブルで手紙を書いたり勉強したり、あっちでは顔を洗ってうがいをして、こっちには本を並べて・・・洋服タンスからパジャマを取り出してベッドの上に置くんだ・・・”
金南天(キム・ナムチョン 1911~1953)の小説“経営”“麦”の二部作より。1938年から40年の間に起きた出来事を描いており、舞台は京城のあるアパートだ。主人公のチェ・ムギョンは、“大和アパート”の事務員である。彼女にはオ・シヒョンという婚約者がいる。 シヒョンが西大門刑務所から出所すると、二人は竹添町(現 忠正路)の大和アパートに部屋を借りる。323号室、二人はこの部屋を“第7天国”と呼んだ。
当時竹添町の西大門警察署、美洞普通学校の近く3街8番地に“京城大和宿”というアパートが本当にあったそうだ。作者はそのアパートをモデルにしているという。 残念ながらこのアパートに関しての資料が全くないそうで、あった、ということしかわからない・・・
小説の大和アパートは、南向きの3階建てで独身向け、家族向けと分かれており、120~130人が住んでいる。事務室、食堂、ビリヤード場、浴場、理容室、娯楽室が完備されている。冬はスチーム暖房で石炭を使用する。ガスも通っている。 家賃、暖房費、電気・水道費を払い、テーブルと洋服ダンスはもともとついている、と書かれている。
儒林(ユリム)アパート
儒林アパートは、1930年、日本人豊田種雄によって現忠正路3街250-6番地に建てられた。4階建てで15坪から35坪タイプの部屋が52あったという。このアパートが韓国最初のアパートだという説もある。 当時は豊田アパートと呼ばれた。その後ホテルとして使われたが客が入らず赤字、飲食店の集まる雑居ビルになる。 1945年以降、満州帰りの人々が勝手に住み着いていたが、朝鮮戦争中は北朝鮮によって占領され、虐殺する場所として使用された。 時は流れ、再びホテルとして使用されたが持ち主が次々と変わっていった。 1979年都市計画のために建物の半分が壊される。
※同潤会アパート 同潤会は関東大震災の義捐金をもとに内務省の外郭団体として、罹災者の授産事業と住宅供給を目的に設立。同潤会の行った事業の一つが鉄筋コンクリート造アパートの建設である。スラムクリアランスを目的としたもの、単身女性を対象としたもの、サラリーマンなど中流階級の人を対象にしたものなど、さまざまなタイプのアパートが作られ、都市における新しい様式を追求した間取り、施設、配置計画などが試みられた。中産階級を対象としたものには、青山アパートメントハウス、代官山アパートメントハウスや、江戸川アパートメントハウスなどがあり、モデルとして作られた江戸川アパートには、エレベーターや社交室、娯楽室のほか、暖房のラジエーターや電話も備えられている。 『図説 近代建築の系譜』(彰国社)より、一部を変えて抜粋
※韓国建築の専門誌“POAR”を翻訳、参考にした。 写真資料は、“ソウル生活の発見”(現実文化研究)より。日本での同潤会アパートの研究資料はたくさんあるが、三国アパートに関する資料はないに等しい。 植民地という特殊な状況で近代化と都市化がすすんでいったこの時代、趣味の範囲で これからも追いかけていくつもり。
最後にどうしてもみなさんに紹介したかった、ある合同住宅。
ある町の合同住宅
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竜山電気街のハングル看板の洪水。 そこから少し歩くと日本風の住宅がたくさん残っているトンネ(町)に着く。 その木造アパートの存在感は大変異様なもので、ここが本当にソウルなのかと目を疑うほど。
中に入った。雑然とものが置いてあってかなり汚いのだが、映画の一場面のようにフォトジェニックなのはなぜだろう? 年期の入った木造階段を上る。木の手すりは甘いあめ色になっていてツルツルしている。 長い年月をかけて磨かれていったのだろう。
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ガタピシになったドアの隙間から中の様子を伺ってみた。そこは空き部屋で、クリーム色をした床材が見えた。 4畳にも満たない広さであった。 日本式の建物だからといって日本人が住んでいたわけでもないのはわかっている。 しかしここの住人たちが、京城と呼ばれていたころに、どんな生活をしていたのか・・・ 彼らが見たであろう風景が、目の前に少しずつ広がっていくようだった。
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梨泰院(イテウォン)に向かう途中戦争記念館がある。 その入り口のすぐ隣にあるアパート。 人が住んでいるのかどうかとても気になっていたのだが、この日写真を撮っていると・・・・
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一人のスーツ姿の男がすぐ近くの路地からひどくあわてた様子で飛び出してきた。そしてこのアパートの入り口のドアの鍵を開けて中に入っていった。 まるで不思議の国のアリスに出てくるうさぎのように。 こんな偶然ってあるのだろうか? 私は鍵のかかっていないドアを開けた。 白い扉があけっぱなしであった。 彼はここの住人なのか?どうして扉を開けっ放しにしてあるのか? とりあえず、ここには人は出入りしているらしい。 ドアの中を見たくて見たくて仕方がなかったが、パチリと一枚写真を撮ってその場をあとにした。
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