東大門(トンデムン)からまっすぐにのびる退渓路(テゲロ)は、忠武路(チュンムロ)・南大門市場(ナンデムンシジャン)を通ってソウル駅へと続いている。
常に車の量が多くとても騒々しい通りで、ソウルの大動脈的通りの一つだ。
アルバイトをしていた某インチキ旅行会社は、この通り沿いの雑居ビルの中にあった。
鍾路(チョンノ)から歩いて南大門に抜けるにはいろいろな行きかたがあったが、会賢地下商店街(フェヒョンチハサンガ)という、時間が流れるのをやめてしまったような、古臭くて人気のない暗い商店街を通って行くのが好きだった。そこは中古レコード屋の集まる地下商店街として有名だった。 (現在は改修工事が終わり、明るい商店街になったと聞く。)
商品の管理、という概念がまったくないかのような放置状態のレコード。
悪いものが多いのだが、試聴させてくれる店もある。運がよければいいものを非常に安い値段で買うことができる。
あとはジャケットの汚れや時間焼け具合をどこまで我慢できるかがポイントだ。
レコードプレーヤーはないのだが、モンドテイストなジャケットは見るだけでも楽しかった。
気になったことが一つあった。店の前に適当に並べられたゴミレコード(これは宝物という意味も含めて)の中に60,70年代の中国(台湾や香港も含む)のものが多いのである。
しかも日本でもまず見かけないような映画のサントラだったり、サイケ調のジャケのもろ歌謡曲っぽいのだったり・・・
さて、どうしてでしょうね??
地下鉄4号線会賢駅を降りてにぎやかな南大門市場を背に、退渓路をはさんで南山タワー方面へ続く小さな路地を入る。始めはゆるく傾斜しているが、傾斜がきつくなっていくと同時になんとなく懐かしい感じになっていく。
どこかできっと見たことがあるような小さな民家が並ぶ。
多くの家の窓からムワムワと蒸気が出ているのが見え、ガチャガチャとうるさい機械音が聞こえてくる。
『○○刺繍』『職工求む』『○○ボタン』・・・そんな紙切れが貼ってあるのが多いのを見ると、縫製関連の町工場が多いというのがだんだんわかってくる。
電柱のそばには、大量の布の切れ端を詰めたゴミ袋がまとめて置いてあり、別の路地を入って坂を下りていけばたくさんの漢字看板が目に付く。 今度は『○○包装』『○○貿易』『通関○○』。
くたびれたあやしげなモーテルがあるかと思えば、死んで真っ白になったイカが揺らいでいる水槽を置いたさしみ屋があったり、ちょっと離れているがフランス語を習うといえばここ、なアリアンスフランセーズはこの街のある古いビルに入っている。
ここからちょっとカタメなお話。
会賢洞の町名は、朝鮮時代在野の立場にある士人が集まって住んでいたのが由来だそうだ。王宮のある北村(プクチョン、景福宮のまわり、インサドン・カフェドンなど)が都の中心で栄えていたのだから、日本が植民地支配をするときに、北村と対極にあるこの南山を日本植民地支配の中心と決めたのはとても自然な成り行きとも言える。
日本は居住民会を作って、忠武路・明洞・南大門市場を背にした南山の開発をすすめ、
幼稚園や学校、警察署を作り、水道をはじめとしたライフラインをととのえていった。
広大な土地を“永久無償貸与”で受け取ると漢城公園をつくって、1925年には王朝の守り神を祭ってある廟をこわして神社まで建ててしまう。(ついでにいうと、現在新羅ホテルのあった場所には伊藤博文を慰めるための寺もあった)
日本人が多く住み、政治と商業の中心となった南山エリアににぎやかな場所・・そう花町ができるのも当然。
「夕方にもなれば、人力車に乗った白い顔の芸妓たちが、髪の香りを漂わせて丘を登っていった・・・」
このあたりは、京城(この時代ソウルは京城と呼ばれていた)で一番の花町として栄えていたそうだ。
ちなみに会賢洞は植民地時代、“旭町3丁目”。
解放以後、日本人の所有物はすべて払い下げか公売され、ソウル市は戦災民や北朝鮮からの避難民のために単独住宅を分けて住まわせたり、大きな土地を分割して与えたりした。
高級料亭だったところが臨時居住地となり、その一部があやしい連れ込み旅館へと姿を変え・・・街はどんどんディープになっていく。
そんな街に目をつけたのは明洞や南大門市場で働く労働者たち。仕事場に近く家賃も安いこの街は、かれらにとってはおあつらえむきの場所だった。
また、明洞の歓楽街でそちら関係の仕事をするにも便利な場所であった。
けれども江南(カンナム)地域の開発、 高架道路の開通など都市構造の変化に伴い、サービス業の基地であった明洞や南大門市場の求心力が弱まっていく。この街に刺繍・ボタン・ジッパーや服のポケット縫い付けといった種類の小工場が集まってくる。
そしてそこで働く人々の中に、小公洞(ソゴンドン、市庁の近く。ラディソンプラザホテルの裏、昔中華街があった)の再開発で追い出された華僑が多くいた。
ずいぶん長い前置きだったかもしれない。
その華僑たちが持っていたレコードがこの地下商店街に流れてきたのだ、と想像するとどうだろう。
ある人が、この地下商店街で“めちゃくちゃサイケなテレサ・テンのアルバムを発見した”と報告してくれた。あの『月亮代表我的心』『甜蜜蜜』を歌うテレサがミニスカでファズギターに合わせて一人GS(グループサウンズ)をしていた、そんなアルバムをソウルのある地下商店街で見かけたら・・・
もちろん、小公洞に中華街があったことも、南山に日本人が多く住んでいたことも知らなくてもいい歴史の事実の一つにすぎない。
けれども、ソウルを歩くのがもっと楽しくなる。
なんとはないコルモク(路地)に入っていくのが楽しくなる。 そう、想像は誰でも自由にできることだから。 想像するための材料が少なければ、想像力はもしかしたら豊かになるかもしれない。 いいたいのはそれだけなんだけどね。
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